江戸を代表する花火師の屋号。鍵屋と江戸の花火の人気を二分した。
文化7(1810)年、鍵屋の番頭清七(『鍵屋伝書』)には新八とある)が暖簾を分けてもらい両国広小路吉川町に分家、名前を市郎兵衛と改めた。鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになり、花火は、両国橋をはさんで上流を玉屋が下流を鍵屋が受け持つようになる。玉屋の人気は鍵屋をしのぐほど高かった。
しかし天保14(1843)年、玉屋は失火によって全焼、町並を半丁ほども類焼させてしまった。
失火は重罪と定められていた当時であり、しかも将軍家慶が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸払いの罪を科せられ、追放処分となり、わずか一代で家名断絶となってしまった。
鍵屋・玉屋の時代は32年間で幕を閉じたが、玉屋の名は江戸庶民の間に語り継がれ、その後の花火大会でも江戸っ子達は「鍵屋ぁ〜」「玉屋ぁ〜」と歓声を上げて見物した。
玉屋 (たまや)
|
|




